私の作風とゆみちゃん


昨日は、まなちゃんとの撮影を思い起こして書いてみたが、今夜はゆみちゃんについて。
写真を見ても分かるように、この二人はかなり対照的。しかし、私は二重人格ではないから、彼女らにあわせて性格を変えるわけにはいかない。
まなちゃんが、私の意図する撮影にふんわりと乗っかってくれているようで、いつのまにか私を飲み込んでしまうのに対して、ゆみちゃんは自分のやりたい事が前もってはっきり決まってる場合が多く、それを事前にメールでたっぷり聞かせてくれるし、撮影後もその結果を元に議論が続くのである。
今回も例外ではなく、撮影後のやりとりは今後の事も含めてかなり熾烈であった。

私もゆみちゃんもお互い言いたい事を言い合うことになり、そんな風に決め付けてどうすんねん?なんてやりとりになる。
モデルを大事にして、ずっといっしょにやりたいが為に、それを避けて通ったり言いなりになっていても、ゆみちゃんクラスになると逆効果で、「こんなカメラマンが相手じゃ私の言いたい事なんか伝わらないわ」って結末が来るのは目に見えている。
で、お互いに頑固ときてるから、「まぁどうでもええやん」とは行かず、お互いが納得するまで続くってわけだ。

私には私の考えがあってのことだし、ゆみちゃんにもしっかりした主張があるのだが、何回かやりとりを繰り返すことで、お互いの意思の疎通が出来てくるものである。
それを途中で投げ出してしまうことなく、ゆみちゃんも喰らいついてくるので、私もその熱心さに応え、ゆみちゃんがこう言うベースには何か出来事があったのだろうか・・・なんてことまで思うけだが、それを察しているのか子供の頃の体験談まで聞かせてくれるのである。

まぁ、そんな感じでゆみちゃんとの撮影では色々と目的を持ってやろうといった状況であり、撮影も、まなちゃんを撮る時とは違った雰囲気で進む。
だから、まなちゃんとの撮影のようにその場で感じる感覚を優先するようなものとは、趣を異にしている。
しかし、今後はゆみちゃんの考えていることも徐々に解ってきたし、それを尊重し踏まえた上で私流の撮り方をもっと押し進めて行きたいと考えている。
その私流というのは、ここで多くを語ってきた。
とは言っても、『彩風Kaze』と『素顔のままで』が同じになることは絶対に無い。

ただ、私がゆみちゃんに今後求めたいのは、もっとゆみちゃん自身を全面に押し出して欲しいのだ。今でも充分ゆみちゃんの個性は発揮されてるし、いろんなバリエーションのモデルができる。
前回の撮影からの数ヶ月で確実に幅が広がっていることも、考えていることの変化も見て取れたが、それはモデルとしての現在の仕事に直接つながる部分そのものであると私は思っている。
そこで、今回議論を重ねて、直接仕事で云々じゃなく、もっとゆみちゃん自身が持っている未開の部分を探そうと思うのだ。

そのひとつとして、ゆみちゃんの持っている本質のもっと奥底にある部分を引き出せないかと思っており、そのお手伝いを、単にシャッターを切るだけのカメラマンとしてでなく、やれないものか私なりに考えているところである。

さて、ポートレートと言えば、写真として表舞台に姿かたちをさらすのはモデルであるが、私の撮り方は、そうとも言えないと思っている。そのカット一枚一枚のシャッターを押す時は、私自身のがその表情が好きだと思ったからであり、私の好みそのものなのである。それは、私自身をさらけ出しているとも言えるのである。

こういう撮影ができるのは、まなちゃんともゆみちゃんとも、色々とホンネで話し合う機会が持てているからであり、個人撮影を行う上で一番大事であって、これが出来ないようなら個人撮影する意味をなさないと思っている。
単に、一人でモデルを独占して撮れるというものではないし、モデルに嫌われるのを恐れて、言いなりになることもしないし、その逆もしかりだ。
そのホンネの話し、皆さん出来てます? モデルに嫌われないように合わせてんじゃないよ。

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