撮らされるって?
ポートレートにおいて、よく耳にするのが撮らされる≠チて表現である。
写真と言うものは、カメラマンがシャッターを切らない事には始まらないのだから、それだけで撮らされてしまっていることに気付かない場合が多く、さらにモデルが良かったりすれば、最近のカメラを使えば結果は保証されたようなものだ。
しかし、それはモデルの努力であり、カメラメーカーの努力の賜物であって、カメラマンが偉いわけじゃない場合が多い。
AFや多分割測光のカメラが登場して久しいが、それ以降に写真を始めた人に、機材の性能のことをとやかく言っても仕方がないので、いい時代になったということにしておこう。
撮影会に出ている有名なモデルたちは、客を満足させるのが仕事であり、それが出来なければお呼びがかからないのであるから、やってくるいろんなカメラマンが満足するような写真を提供する必要があるし、それが使命だと感じて頑張ってくれている。
そうであるから、カメラを構えればいい顔してくれるわけだが、それは彼女たちの日頃の努力や研究の成果であって、カメラマンが引き出したものかと言えば、そいつは疑問である。
しかし、いい顔してくれた瞬間にシャッターを切って、それを捕まえたのは自分であるから、撮らされたと一言で済まされたら困るってのも、それなりの筋は通っている。
まぁ、撮影会ではそんな撮影がメインになるのだが、撮りに来た最終目的がそんなものではないのが、私のケースである。
そうは言っても、気に入ったモデルを撮るわけだから、そのモデルの得意の表情はもちろん好きだし、そもそもそれを目にして、いいモデルだと感じたことが多いのだ。
だから、そんなモデルのくれる表情にはどんどんシャッターを切る。しかし、それってモデル主導であって、完全に撮影のイニシアティブはモデルに握られてしまっているのだ。そう考えてみれば、撮らされたと言われても仕方の無いことであるが、それはそこまでで終わってしまった場合である。
ここで、これは自分の事を言っているのでは?って思った人がいるだろうが、そうアンタのことだ。ただ、そう感じてくれる人へのメッセージであって、イジメでもケナシでもないのだ。
いい表情が飛び出せば、どんどんシャッターを切ればいいが、そのまま他のカメラマンに意識を移されてしまったら、それで終わり。モデルのなすがまま、されるがままである。
そこで、モデルを引き止めることが出来れば、その主導権はカメラマン側にやって来るのである。ん・・・?どうして欲しいの? ってことになるが、そこで何のアクションも起こせなければ、ニコッと軽く微笑まれてまた終わり。
ということで、ここではほんの一瞬の間に2つのイベントが起こせなければならないのである。
その流れのきっかけととして、撮らされてみるのもいいし、そのモデルとの間も感じ取れるものである。
じゃぁ、そこで何らかのアクションを起こしたとしよう。しかし、それがワンテンポ遅れてしまったとしたら・・・ そうなってしまうと、そこで仕切り直しってことになり、完全に体勢を整えた、百戦錬磨のモデルのペースになってしまって、また撮らされモードに逆戻りである。声をかければイイってもんでもなくて、如何にカメラマンの主導でいれるかが問題なのである。
そして、モデルに何を感じさせ、それをどう受け止めるかが大事なのである。感情のキャッチボールをしたいものだが、あくまでも勝負球を投げ込むのはカメラマンでありたい。
もし、相手が素人モデルであったなら、いきなりそれを求められることになるが、アマチュアカメラマン相手の経験が豊富なプロのモデルのようにはいかないし、どれだけモデルという職業が大変なのか分かるってもんだ。街を歩けば、プロのモデル顔負けのルックスの女の子はいくらでもいるが、それだけじゃモデルなんてやっていけないのである。その辺を勘違いしている女の子もいるが。
私とまなちゃんの『素顔のままで』の場合、ある程度まなちゃんに任せてしまうことも多い。しかし、それは私がいろいろ考えて決めたロケーションやシチュエーションをしっかり分かってくれる相手であるからであるし、『素顔のままで』ってやつは普通のポートレートとは趣を異にしているのである。それは今回の尾道ロケでも改めて思ったことだが、感じるままに撮れるのって気持ちがいいもんだ。