標準レンズに戻ってくる?
最近、撮影していないのでどうも机上の空論になってしまうのだが、それはそれでいいではないか。
こう言うのを充電期間と表現するケースも多いようだが、なんとも便利な言葉だこと。
写真を続けて行くと、自分で納得する写真も段階を追って変化するが、私が子供の頃は先ずはピントと露出の二つが揃えば嬉しかったものだ。当時はまだ手ブレとピンボケの区別もつかなかった時期でもあった。すべてがマニュアルの時代であるから、露出が決められることは高等技術でもあったと記憶している。今は、そのピントと露出はカメラがほぼやってくれるのだから、かなり楽になったのは確かである。
人間、便利なモノにはすぐに慣れてしまって当たり前になってしまうものだが、その便利なモノはどんどん使うべきであると思うし、それをあえて避けて難しい道を選んだとしても、その結果の写真を見る人はエライねスゴイねと誉めてくれるわけでもなく、写真を撮る過程を楽しむ個人的な趣味の世界にすぎない。また、撮影の過程についてはカメラの操作だけでなく、他にも色々あるのだから人それぞれであって、他人が口を挟むべきではない聖域とも言える。
話は戻って、納得して自分でもホレボレするような写真として、ポートレートであれば大口径の望遠系レンズの開放域で撮った時の、バックが大きくボケてモデルが浮き上がった写真を見て「やっぱりこのレンズは高いだけあるねー」と自己満足に浸るのは、誰もが通る道であろう。
こんなレンズの代表選手がF2.8の70−200mm望遠ズームであろうが、撮影会専門で撮っていると、これほど便利なレンズも無い。しかし、気付いていない人が殆んどだから敢えて言わせてもらえば、便利だと感じるのは言い換えれば楽ができるってことの裏返しなのである。
それのどこが悪い?って思う人には用はないので、せいぜい楽すればいいさ。
昔から写真をやってる人であれば、50mmレンズをつけた一眼レフのファインダーを覗いたのが最初であると思う。それがAF+標準ズームなんかである人とは多分カメラとの出会いのイメージは大きく違うはずである。
言い古された表現であるが、50mmに始まって50mmに終わる≠ヘ決して間違ってはいないが、私はまだまだ終わってしまうつもりは無い。望遠でボケ味に魅せられた後は、広角の面白さにハマリ、そしてまた50mmに戻って来るって感じになるのかも知れないな。
と言うことで、望遠の次は広角、そして更には超広角の世界ってことになるが、確かに難しい反面、こいつが面白いのである。望遠レンズで切り取って、ボケに自画自賛していたのが馬鹿らしくなるほど難しい。いや、望遠が楽過ぎるのかも知れないが、何でもかんでも写ってしまうことがこれほど面白く、その反面それがどれだけ厄介なことであるかが、こいつなのである。それに加えて、被写体に近づいて、更にもう一歩踏み出して撮ることが、ハマってしまう最大の要因であると私は思うのだ。
そのモデルへの大接近で、多くのことを肌で感じてしまったら、その時点で写真は変わると私は思っているが、その感覚を持ちながら50mmレンズに持ち替えると、これがまたいい感じなのである。望遠レンズ専門の人はいきなり50mmを使うだけで、その距離感に面食らうらしいが、遠くから撮っていたことから、接近することで何かを感じるはずであるが、そこで力んでしまっては元も子もないので、超広角の距離感から一歩引いた50mmってのは、案外イケてたりするのだ。
同じ標準レンズであっても、この差を感じれる人とそうでない人はいるんだろうね。
こんな感じで余裕を持って50mmを使いだすと、色んなものが見えてきたりするのだが、こうなってくると、自分で「コイツはいい写真だよなー」って感じる基準が変化してきていることに気がつくのである。