カッコ良く撮ってあげたいじゃないか


「撮りたい」と「撮ってあげたい」は似て否なるもの。個人撮影ではとても重要な感覚の違いだ。
奇麗に可愛く、スタイル良く、そしてカッコ良く撮ってあげることこそが、まさにカメラマンの務めであり、そして原監督の口癖ではないが“愛”であると私はいつも思っている。
写真術として、ライティングや構図などももちろんおろそかにはしていないつもりだ。まなちゃんなら私がほんの少しの光の当たり具合にもこだわって、顔の角度を細かく神経質なほどチェックしていることは知っていると思うが、それは結局は技術的な完成度よりも、単純明快にキレイな顔に撮ってあげたいという気持ちからきていることである。
スタイル良く撮るのだって同じことで、モデルが喜んでくれる写真にしてあげたいと思うのだ。
その観点から見て、市販されている写真集や雑誌のグラビアなんかでも首を傾げたくなる写真が多い。そしてそれはお金を出して買った人に対しても愛がないことになる。

「相手を傷つけたくないというのは、結局、自分が責められたくないという気持ちの裏返しだ」って言う解釈もあるだろうが、私は他のカメラマンより、オレの方がステキに撮ってあげているだろう?だからさー・・・なんてことは一切言わないし思わない。
ただ、純粋にそうしてあげたいだけなのだ。
人間って、余計な事ばかり考えてしまう、時にはどうしようもない生き物である。その余計な部分は邪魔なだけなのではないだろうか。

私は一緒に撮影しているモデルを他のカメラマンが撮ったとしても、その写真を見て、自分と比べてみたいとかは思わない。自分なりの精一杯を追求するだけなのだ。
それが、個人撮影の基本中の基本の考え方である。特に私がメインにしている金銭的な利害関係が発生しない撮影の場合は特にである。

もっと言えば、私はギャラを取ってモデルをしてくれてるモデルが、仕事だからと頑張っている姿は認めるし尊重する。しかし、その同じモデルとノーギャラで撮影した時の写真と写真的な品質に差が出た記憶は無い。差が出るとすれば、その写真の中のモデルの表情だ。これは第三者が見て明らかに違うらしい。もちろん「こっちの方が自然で好き」と個人撮影で撮った方が気に入ってくれる。特に女性はカメラの前で作った表情を見抜く力を持っているようだ。

ビジネスとしての撮影でも、写真の用途や撮影の趣旨を思わず忘れて『素顔のままで』の自分がむくむくと現れることが多いが、それは、まなちゃんが私にくれたプレゼントであり貴重な財産だと思っている。
と言う事で、私にとって撮影とはモデルとカメラマンのイメージと言うか表現力がぶつかり合う場だとはあまり感じず、「融合」だと思っている。言い換えれば、そんなに力んでどうなる?そして、誰かに評価してもらいたいわけじゃないだろう?って感じだ。だが、それは決して手抜きなんかではないし、お互いに肩の力を抜く方がずっと次元の高いことなのだ。たとえお互いに力のこもった撮影になったとしても、それは決してぶつかり合う感覚なんかではない。

たとえば、まなちゃんの場合は撮影前に彼女のコンディションを見ることで、私なりに色々と配慮をしているつもりである。永く一緒にやっていると色々と女性の身体には変化があるが、それを解ってあげた上で撮るのと、その余裕がないのとでは、撮ってる私以外は気付かないかも知れない部分で差が出てくると思っている。しかし、そんな小さなことの積み重ねが、ほんの少しでもモデルが喜んでくれることに繋がっていると思ってやっている。そして、それが写真を見る人の心の片隅をちょんと突くこともあるかも知れない。
逆に言えば、そういうことが邪魔臭く感じてしまうような相手とは、個人撮影は出来ないなー。

スタイルで言えば、骨格を私はとても大事にしている。建物だって基礎がちゃんとしていなければ、いくら装飾やインテリアでカバーしたって意味が無い。
人は骨格の上に身が付き皮膚があるわけだ。もっと言えば、手足のそれぞれの関節を起点にして筋肉がついているから、その角度によって生じる引力とそれに逆らう力を込めた時の緊張の関係で様々な造形を作る。モデルがキレイに見えるかは、元を正せばそのベースになっている骨格が大きく関係していると私は思っているのである。

まなちゃんなんかは、その骨格がしっかりしているし、脚が真っ直ぐで姿勢もいい。また、見せるセンスを彼女は持っていると最初から感じていた。そして、動きが加わることで緊張と重力のバランスが絶妙となる瞬間がある。案外、これがイマイチなモデルは多いのだ。じっとしたポージングが巧いだけではなー。
また、関節やさりげなく形を見せる骨というのがこれまた大事だと思っている。肩、肘、手首、指、膝、くるぶし・・・そして鎖骨。
世の中、ポッチャリなんて女性に都合のいい表現が氾濫しているが、鎖骨が埋まってしまったようなのは絶対許せない。
昔の歌で“骨まで愛して♪”なんてのがあったが、私にとってはとても大事な要素なのである。


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