ご自由にストーリーをどうぞ
願望と現実は、おおむねズレがあるものだ。そのズレの部分を埋めた表現が出来るのが写真の世界なのだ。思い願ったことをそのまま実現出来ている人などそういるはずはなく、いたとしたら奇跡的な幸運の持ち主か、よっぽど望みが低いかだ。
いい女を客観的に撮るのはたやすい。しかし、そのいい女と通じ合っているような写真はそう簡単にはモノに出来ないが、言葉を発しない静止画の写真であるからこそ逆にウソっぽくなく形に出来るのではないかと思うのだ。
映像表現をけなすつもりは毛頭ないが、動きがあって言葉を発する映像では、どうしても相手が決まってしまうような気がする。ビデオカメラのレンズに向かって画面の前の相手に無言で演技するのには無理がありそうだ。
実際にじっくりと観たことはないが、アイドルとかのDVDなどが多くあるようで、時々TVでダイジェストが紹介されていたりするが、ただ動く映像にファンが喜ぶだけのような気がしてしまう。
その映像の中から、自分の名前を呼びかけてくれたりすることは絶対にないから、想像するだけなのだが、現実に動く映像はそれ以上もなければ以下もないシビアなものなのだ。
ドラマで女優が見せる表情も特定の相手役に向けたものである。
言葉を発しない止まったまんまの写真は、その中に詰まっている物理的な情報量は映像の足元にも及ばないが、映像以上の何かを見る側が思い描かせる情報は無限大に広がるのである。
ちょっと、違った観点から言うと、ドラマのエンディング・テーマと共にストーリー内でのワンシーンがストップモーションで流されることが時々あるが、その曲との相乗効果もあいまって、色んな想いが駆け巡ることがある。時にそれは、そのドラマ本編内の流れの中のシーン以上に、たった一枚の写真から感慨深く感動を呼び起こしたり、多くのことを思い浮かべるものだとは思わないか。
TVといえば、さんま御殿だったかな、グラビアや写真集を見ていろんなアイドルを仮想彼女にして楽しんでいると、司会のさんまも含めた男性陣が異常に盛り上がっていた。
写真というのは、不特定多数を相手にしても、何かしら訴える力をたくさん秘めているように思うのである。
今日のオマケ画像は大阪芸大で撮ったものだが、その時は途中から私のロケハンに付き合ってくれた芸大生の女の子が加わり、一緒に学食でカレーを食べたりして楽しく過ごしながらの撮影だった。
彼女はストーリートでやってるバンドでドラムを叩いていてその練習があるからと、この2枚を撮る直前に帰っていった。近くに同じ女性がカメラを手にしながら見ていた時と、その後ではまなちゃんの気持ちの入り方が大きく変わったのを今でもよく覚えている。
また、タイミングを同じくして日が大きく西に傾いてきたことが、まなちゃんのハートになんらかのおまじないをかけたのかもしれない。
一枚の静止画は、何がまなちゃんの瞳を潤ませたのかは明白に語ってはいない。しかし、その答えを見る人がそれぞれの感性、または感受性で感じればいいわけだ。
お金を掛けた撮影地やセット、衣装などで圧倒するのもいいが、こんな謎解きを楽しめないようでは、つまらなさすぎる。
別の見方をすれば、映像であればなるべくして涙が溜まってくるわけで、その訳や経緯も伝えなければ「いきなりやなー」ってことになる。しかし、写真ではそんなことは気にすることはない。
ただ、これだけは言っておかなければならないが、モデルの体温が溶けている空気の中で撮っているということだ。その時の私だけが知っているその真実を封印したままで、見る方が勝手にストーリーを作り上げてくれるのだから、その一瞬さえそれっぽく撮ればいいのである。
但し、よっぽど芸達者でないかぎり、もう一枚のカットも含めて突然こんな表情を出来るモデルなんていない。鏡を見ながら笑顔の練習をするモデルはいくらでもいる。しかし、こんな表情は、何らかなメンタル的な要素がインプットされなければ、そう出来るものじゃない。そこを苦もなくやってのけてしまうのが、まなちゃんのある意味モデルらしからぬところなのである。