一粒の砂たち


先日、ここで私は基本的に大事な女性に対しては優しいし、レディー・ファーストだと書いたが、よく考えてみれば至極当たり前のことであったと反省しているのである。しかし、そのレディー・ファーストだって若い頃は自分には無縁のものだと思っていた。そんな私の前に現れたのが最初に本格的なマンツーマンのポートレートの練習相手をかって出てくれたMiwaである。元々、私とは住む世界が違うほどのお嬢様であるが、育ちの良さからくるものなのか、その天真爛漫さと嫌味の無さでレディー・ファーストってのはこう言うものだと自然に教えられたのであった。

そこで改めて、レディー・ファーストなんてものは別に心を込めてやる必要は無いのだ。出来ない人は、多分女性に心を込めなければ、と余計なことを考えるからだと言いたい。
日本の男は女性に対して真面目で真剣に考えすぎるから、なんでこんな女に・・・などと腹立たしく思えるのだろう。そもそも、レディー・ファーストって心がこもっていないところがカッコよくて、心がないから簡単に出来るしイキなのだろう。
これは外国人ダンサーから聞いた言葉を元にしているが、日本人男性の大きな勘違いを的確に指摘しているように思うのであり、少なくとも私は何か深い霧がすーっと晴れたような気がしたのだ。私だけではないと思うが、自分とタメかそれ以上の相手に対してと、好意を持った相手にだけレディー・ファーストの精神が在ると思っていたから、むかっ腹が立っていただけなのだ。どうやら、これで女性にたいする潤滑材を得たような気がするが、永年身についた習慣がそう簡単に切り替えられるかだな。

危なっかしくも、懸命にむいてくれたリンゴは本当に美味いが、慣れた手つきでつくられた難しい横文字名前の手の込んだ料理は、ただお腹がいっぱいになるだけだ。
完成度の高いモデルは確かに撮りやすい。計算され尽くした笑顔と寸分の狂いも無いポージング。そんな時、私はファインダーの中でいつも感心し敬意を表しつつも、このままでは他のカメラマンと同じような写真を連発するだけで、ヤツらの中に埋もれていくだけだな、と思ってしまう。
分かりやすい例を挙げれば、茜ちゃんなんかそのものズバリであったが、最初からそれを承知の上で敢えて挑んでいったものである。その結果は、他のカメラマンたちが思ったほど手強くなかったことも手伝って、いい意味で茜ちゃんのペースを乱すことが出来た。そして、過去に見た膨大な茜ちゃんの写真では見れなかった部分を見せてもらえたのだ。
まなちゃんに関しても、初対面の撮影の時は言葉は悪いがカメラマンを人として見ていないかのように、一糸乱れぬ自分の流れを崩さなかった姿は見事であったと、今でも強烈な印象として残っている。当時の私が持ちえたモデルに対するアクション程度では、歯が立たなかった。しかし、他のカメラマンと私が違う所はそれを甘んじて受け止めないことである。
最近のドラマで「伝説のマダム」なんてのがあって、ウエディングドレスのデザイナー役の桃井かおりが依頼者である新婦の生活に混じる≠ニ表して関わっていくのである。なかなか面白い設定だと思って時々見ているが、表現を借りれば、私も不思議な存在であったまなちゃんに少しでも混じってみたいと思ったのである。

私の撮り方は、何度も言うようだけど、モデルを絶対にオブジェとして扱わない。映画でもMATRIXのように映像技法が売り物の作品には娯楽的興味はあっても、そればかりの宣伝だけでは余り心動かされないのだ。もっと人間的な部分で見るべきものはないのだろうか?考え方を変えれば、30年後はMATRIXなんか昔のウルトラマンを見ているようなものじゃないかな?しかし、ローマの休日のオードリー・ヘップバーンの美しさは色あせる事は絶対に無いだろう。
モデルの息づかいを大事にしてきた私だが、もっと踏み込んで表現すれば、砂つぶを間近で見るとひとつひとつが大きく見えないか?上辺だけを見てやり過ごしてしまいがちな部分を、大切に傷つけないようにそーっと化石を拾うように取り出してみたいのだ。
その化石の小さな一片を繋ぎあわせると、その日の撮影の輪郭が現れ、背景が見え隠れするのだと思っているので、『素顔のままで』の各回の写真もそのように見てもらえれば、また何らかの写真鑑賞方が見出してもらえるのではないだろうか。

空気のような存在になることが望ましいなんてことを言っているのをよく耳にするが、実際にそうだろうか?私は空気感を撮りたいと言ってはいるが、同じ空気≠ナも、その意味は大きく違う。モデルを独占している時は無意識に時間を費やすことはない。一秒足りとも貴重で無駄に出来ない瞬間の積み重ねなのである。もちろんそれは撮影している時に限ったことではなく、助手席でメイクやヘアの手直しをしている時や、ロケ地に選んだ野道を肩を並べて歩いている時。そして撮影日以外で一緒に入れる時間などに強く感じるのである。


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