Do not disturb
いつだったか、広島の街でまなちゃんと買い物をしていた時の事、大きな交差点で突然まなちゃんがバッグから財布を出して、難病にかかった人への募金箱に向かって行ったのである。私はあっけにとられたと同時に、火が出るほど恥ずかしい思いをしたのである。そこで慌てて募金するのも不自然だし、隠れてしまいたいほどであった。実際、私はその募金活動が目に入っていたにも関わらず、まったく意識の外であったのだ。まなちゃんが話す、看護学校での実習の話とかをもっともらしく聞いていた自分が情けなかったわけだ。それ以降、募金箱を見る意識が変わったのだ。今日も梅田のヨドバシカメラの前の交差点で黄色い募金箱に吸い寄せられた私であった。
さて、いつもの調子に戻そう。
人間の眼というものは、感情をバックボーンとして脳裏に焼き付けられる。悪く言えば、正確さに欠けあやふやな部分もある。その点、何の感情も入り込まないカメラのレンズは冷徹無情でありのままを残すことを使命としていて、過去に出会ったカメラが怖いと言った女性たちも、その部分を恐れていたのかもしれない。
そんな写真を通して、感受性溢れる女性はヌードをさらした以上に丸裸にされたように感じる場合もあろう。それだけに女性モデルと男性カメラマンの間には、波長がぴったり合えば、レンズを通した者同士だけに通じ合うある種独特の親密な空気が流れる。それは、肉親や恋人とはまた違った意味で、ある部分それ以上の妙な関係が生まれることもあるのだ。
Do not disturb<hント・ディスターブ。この表現は知っている人も多いだろうが、ホテルの部屋にはだいたいこのプレートが用意されている。「就寝中」の札ってことだが、夜中から朝にかけての時間帯以外では部屋の中の人間にかまわないでくれって意思表示なわけだ。ホテルに缶詰になって仕事に励んでいる人もいるだろうし、彼女といいことをしているのかもしれない。そんな時、Do
not disturb≠掲げておけば、ドアをノックされることすらないのである。
「撮影会から個人撮影へ」これには、このDo
not disturb≠ェ自由に使える権利を得たとも言えるのである。それなのに、ギャラを分散したいのか友達思いなのか知らないが、わざわざ複数で撮ろうとする者がいるようだ。なんて勿体無いことをするのだろうか。
まぁ、「二人っきりはイヤ」ってニュアンスを匂わせられているのなら仕方がないが、どんなにいいモデルであっても、そんなことを気にしてたのでは結果はしれている。もっとフランクに付き合える相手を選んだ方がよっぽどいいし、仮にルックスやモデル技術が劣ったとしても、その方がいい写真が撮れているはずなのだ。それに気付かないようでは、一生撮影会に通えばいいのである。
すくいあげるような視線が飛んでくる。とてもコケティッシュと言うべきかキュートと言うべきか。でも紙一重でブスっぽさと手を繋ぎそうなあの瞬間。どんな女性でも(とは言っても生理的に受け付けない相手は天地がひっくり返っても撮りたくないが)絶対にそんな表情に出会える。例え話にしていいものかいささか疑問だが、腐る一歩手前の肉が美味いなんて話もあるではないか。美形な部分だけを見つけて撮っていたって平均的カメラマンで終わってしまうのだ。
クリスマス・ツリーや花火を初めて見る子供のような、とっても無防備な目をする瞬間は思いがけないところに見つかるものである。
ステキな女の子を見て、「あんな娘がほしいなぁ」なんて考えたら、オスは終わりである。なによりも自分の中の男を説得する力であり、男の狩猟本能をどこかで残しておきたいものだ。