All or nothing


何事に対しても、私はこんな考えを基に生きてきた。そして、これからも多分そうするだろう。
キーワードはだから≠謔閾でも≠ネのである。自分の勝手な理想や追い求める条件にあてはめて、・・・「だから」こうしよう。あの人は・・・「だから」信頼しようとか仲良くしよう。好きな相手だって、・・・だからこの人を好きになるべきだなんてことは、どうも性にあっていないというか、そんな風には生きられない。
それより、・・・なんだけど、「でも」理屈抜きに好きってあるはずで、すべてこの感覚でやってきた。世間一般では、首を傾げたくなることも、私の直感ででも≠ェ出現すれば気にならなくなってしまうのである。しかし、逆にこの価値観を満たしてくれていたはずのものが、幻であったと分かった時や裏切られた場合の心変わりもはっきりしている。

このShooting essayの読者のほとんどが、私との面識がない人たちであるが、知っている人もいて、知っている範囲の私とのギャップを感じて、「あれは全部自分で書いたんですか?」って疑問を投げかけられることもある。また、「らしいねー、でも意外な面もあるねー」と色々である。まぁ、親兄弟でも意外に思うかもしれないが、写真のことも含めて、私のプライベートな面もそこそこ知っているまなちゃんが、いちばんすんなり受け止めているのかもしれない。
親と言えば、私が15歳ぐらいの時だったか、ビートルズのレット・イット・ビーを拙い英語力で訳詞し、そのノートを机の上に置きっぱなしにしたまま学校に行ったことがあった。そして、掃除のために部屋に入った母親がそれを読んでショックを受け、「あれ、アンタが書いたん?」って心配顔で聞かれたことがあった。「あー、あれはジョン・レノンの詩やで」って答えた時の、ホッとしたような表情は今でも忘れない。まぁ、聞いてくれて良かった。さもなければ、そのまま、ヘンな育ち方しているのでは・・・なんて悩まれるところであった。

私の書いていることが、どう写真に関係するのか?なんて質問や疑問を頂戴したことはないが、ネットで写真サイトを見て回っている人の大多数が求めているのは、自分が興味を示している機材や、克服しきれないまま気にかかっている撮影技術であることは、よく分かっている。そんな人はお金を出して雑誌や専門書を買ってせっせと読めばいい。
私だって、そういう時期があったのだから否定はしないが、機材と技術だけでうまく行かないのだから厄介だし面白い。
しかし、私の書くことを「奥が深い」と感心する声も聞こえてくるが、まだまだこんなもんじゃないと言いたい。もっと心の内を上手い具合に表現したいが、文章力とボキャブラリーがないのと、こっそり隠していることもたくさんあって、これから書くことも肝心な部分はナイショなのである。

今日は10年前の洋画を見たが、日本の主な劇場とかではロードショウしていないと思われる、とってもマイナーなものだ。しかし、透明感を感じるなかなかいい無名女優が出ており、撮影イメージが湧きあがってきた。画面を追いながら、これを写真にするには50mmレンズしかないな・・・光は自然光か、タングステン光か・・・なんてイメージを浮かべながらであった。やっぱりこう言うのは、思いついたらそのポイントがぼやけるまでに、頭の整理はしておきたいものだ。言ってみれば「洗った髪が乾くまで」ぐらいの時間以上、間を空けてしまうのはよろしくない。
歳のせいなのか、打ち寄せる波が砂浜に吸い込まれるようにいつの間にか、ひらめいていたものが消えてなくなることがあったりするのだ。
鮮明に覚えているつもりであっても、ほんの僅かスーッと頭の片隅をよぎった、かげろうのようなイメージがとても貴重で大事だったりするのである。
私とすれば、そのかげろうだったり蜃気楼だったりする部分が思い出せなければ、意味が無いのである。目覚めた直後には覚えていた夢なのに、数時間たつとすっかり忘れてしまうのと同じことである。そう、ヒラメキなんてものはAll or nothing≠ネのだ。


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