一点突破主義
またまた久となってしまって、復活の歓迎モードを感じていただけに申し訳ない気がしている。
前回は、「冬ソナ」の話題を書いたが、その直後からドラマは佳境に入ったものの、それと引き換えに満足出来る屋外ロケのシーンが減ってしまって、ここの読者に申し訳ない思いをしていたのである。そんな中、オンエアーの録画するのをうっかりしていたのがきっかけで、最終回までをビデオで観ることができた。ビデオを送ってくれた女性には感謝している。
そして、ラストに近づくにつれてキレイな光のロケがたくさん観れるので、これからを楽しみにして頂きたい。日本のドラマは海外ロケなんかも多いのだが単に「海外まで行ってきました」としか感じられない。太陽はタダなんだから巧く利用しないのは勿体無いと思うし、映像の美しさを最大限に追求しようとする気持ちが、最近の日本では忘れられている傾向があるように感じられて残念に思うのである。
話は変わって、ポートレートとは「一点突破」ではないかと思うのである。恋愛だって、どこか、それを感じる所から始まるのではないだろうか。平均的だとか満遍なくなんてことではトキメキもないし、無条件に心奪われる事なんてないはずだ。
いざ撮影となった時、多くのカメラマンは何を思って取り組んでいるのであろうか?私が感じるのは、モデルに関係なく自分で決めた撮りたいプランが一番だと思っているカメラマンが多いのではないかということだ。それは、写真を見ても撮影している姿を見ても感じることなのである。確かに、課題やテーマ−を掲げて撮影に臨むことは重要ではあると思うが、料理と同じで、素材の良さを活かすことが最高の結果を生むと信じている私としては残念に感じるのだ。しかし、その一方で、自分の聖域を侵されずにすんだ安堵感に近いものを味わって、ほくそえんでいたりするのである。
先に挙げた「一点突破」とは、ひとつしか取り得が無いと言う意味で解釈されたら困る。この日はいい目をしてる≠ニか、シチュエーションにピッタリはまった雰囲気を醸し出している≠ニか、水着撮影に備えて最高のコンディションを整えてきたな≠ニか様々である。何もかも欲張ってしまっては結局は平凡なものとなる。モデルによってアベレージの高い低いは当然あるが、そんなものは関係ないのである。
そして、この一点突破理論は気がつけば思いもよらない副産物をもたらしてくれるものなのだ。自ずとその日の撮影スタイルが生まれ、お互いに気持ち良くいい流れへといざなってくれる。もちろん、密かにそれを感じるのではなく、その気持ちを伝えあった結果だ。
気に入ったモデルであれば、「一点突破」も容易であろう。しかし、いつもそうだとは限らないものだ。だからと言って、身勝手な撮影をしてもいいわけではない。どんなモデルでもいいところが見つかるはずである。それを見つけようとするか、初めからさじを投げるかは大きな違いだ。
私は、タレントや女優でも好みではない場合、よっぽど生理的に受け付けないのは別にして、あえて進んでチャンネルを合わせるようにしているのである。「嫌い」の一言で片付けるのは簡単だが、概ね「オッ、こういうところイイじゃない!」って発見があるものなのだ。女優としての仕事ではそんなに魅力を感じなかったのに、ドキュメンタリーを見て180度変わったこともあったが、それはナチュラルな部分に魅力を感じる事が多い私らしいとも思うのである。