季節の中で撮りたい


桜の季節がやって来たようだ。私は人混みが嫌いなので都心に近い桜の名所は好きではない。おまけに騒いでいる酔っ払いが大嫌いときているから、のんびり花見ってわけにもいかないわけだ。そう言えば六甲の芦有道路の脇に咲き乱れる桜が散りかけている風景なんかかなりヤバかったが、そのタイミングにはたった一度だけ遭遇したことがあって、カメラを持っていなかったのだから、笑える。って言うか、逆にカメラを持っていなくて良かったとも思えるのである。あんな見事な桜吹雪を納得できる写真に残す自信が無いから、脳裏に焼きついたシーンを思い起こすだけでいい。
そんな感じで、クルマで田舎道を走って、いい景色の場所を探すのがいい。もちろん屋台もなければ何も無いが、自然があるからそれで十分なわけだ。
まなちゃんとの広島の撮影はいつもそんな感じであった。一応目的地は決めていたが、途中で見つけた場所での寄り道撮影でいい写真が撮れたことが結構ある。

クルマで走りながら、良さそうな場所を見つけたら、モデルを当てはめてイメージを創りあげ、感覚で決めるわけである。田舎ならどこにだって駐車できるから、さぁ撮ろうってことになる。
通りすぎた脇道の雰囲気が良かったとか、川に掛かった小さな橋の下が涼しげでいいんじゃないかってな具合である。このように季節によってこれは変化し、ススキが逆光でキレイに輝いていたとか、雰囲気のある柿の木が実を付けている。とか、残雪がいい感じで残っていたりである。
他には、今にも崩れ落ちそうな廃屋を見つけたこともあったし、まなちゃんが、広島市内で路面電車の車庫を見つけた時のことは、よく覚えている。
まなちゃんはとても協力的だったが、犬島での撮影の時は自ら崖っぷちに立とうとしてスズメバチに追いかけられて悲鳴を上げていた。
服や靴が汚れることも、増してや私の前で着替えをすることも進んでやってくれるようなモデルはなかなかいない。そんなまなちゃんと撮影が出来たことは、ポートレートを撮るカメラマンとしては、かなり恵まれていたことになる。それに加えて、ヘアメイクも好きで自分でやってくれるものだから、一日でまったく違うキャラを演じ分けてくれたことも一度や二度ではなかった。きっとまなちゃん自身も楽しんでやっていたのだろうが、カメラマンとモデルの気持ちの相乗効果ほど、いい撮影に繋がるものはないわけだ。

先にも少し触れたが、俳句じゃないけど季節感を感じながらの撮影を常に考えてやっている。冷暖房の効いた室内での撮影でない限り、それは大事な要素になる。
『素顔のままで』をざっと見ていただければ分かると思うが、ちょうど今頃の季節に撮ったものは、春らしくのんびりした空気が漂っているだろうし、夏の日差しの中の雰囲気と、木陰や夕暮れのホッとした感じの対比や、冬の陽だまりの中、また、秋の淋しげな感じなど。これを皮膚感覚で感じてナチュラルに表現できるような撮影を私は常に心掛けるようにしている。
その季節を象徴するような自然を小道具にしてしまえれば、自然にはまることになる。それは、光の角度や強さもそうだろうし、冷たい北風だってそうだ。落ち葉の絨毯や、真夏に水と戯れているのもマイナスイオンを感じるはず。
だいたい、光というものは直接は見ることが出来ない、何かに当たって初めて強さや色味が出てくるわけだ。しかし、それだけではないモデルの様子でもそれを表現できるわけだから、それをしやすい条件を設定してあげる必要があるわけだ。だからといって、夏なら炎天下に放り出せということではない。そんな熱気を帯びた光を構図のどこかで感じられ、それから逃れてホッとしたモデルの表情ってのがあるはずなのである。


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