ポートレートのあるべき姿って?


ポートレートの本来の姿ってどんなだろう・・・? ドキュメンタリー写真じゃないので、実物をそのまま撮ってもぱっと見で写真写りがいいように撮れてなきゃダメだ。モデルがそれを見て、私って写真写りいいじゃん!って思うぐらい撮れていなきゃ話にならないと思うわけだ。それが最低限のラインである。
ドキュメンタリー写真でも、どこかの国の貧しい難民の子供を撮った写真なんかで、真っ直ぐで素直な眼差しに引き込まれるような写真がある。モデルになった子供もカメラマンも演出的要素が絡まない状態での撮影のはずなので、純粋にその場の空気感が伝わってくるし、しっかりポートレートしていると感じる。

私が最近思うこととして、CDジャケットなどによく使われている写真で、こんな写真のどこがいいのかさっぱりわからん!ってのが多いのだ。よくもまぁ、こんな手の込んだことをして何が伝えたいんだか。って思ってしまうし、どうせ音楽も同じような作りなんだろうから、聴く気がしないってなるわけだ。
私に言わせれば、写っている本人も撮っているカメラマンも自ら醸し出すものがないから、ゴテゴテと小細工をするのだ。時間と経費ばかり掛かって、見る側は何の感情も湧かない写真で、喜ぶのは一部のコアなファンだけだ。

何かメッセージを込めるために、経費を掛ければダイレクトにそれを表現出来るかもしれないが、それはスタイリストやヘアメイク、スタジオセットなどが頑張っているだけで、カメラマンは照明や露出でアレンジを加えているに過ぎない。もちろん海外に行くこともあるだろう。それでモデルの気分が高揚していい表情になることも期待しているはずだが、そこまでやっても、見る側の意識の半分以上は主役のモデルの生身の姿ではないところに行っている可能性が高い。まぁ、それらのプロデュースすべてをカメラマンがやることも多いから、すべてがカメラマンの創り上げた世界ともいえるのだが、何か違う気がする。
ファッション雑誌の写真であれば、見につけている服が主役だからそれでいいが、そうじゃないだろ?って思うのである。

CDジャケットの写真って、そもそもポートレートじゃないとも言えるわけだが、ナチュラルな写真で十分にメッセージを感じるものも多いのである。昔のフォークソングじゃないから、メッセージ性は求められていないのかもしれないが、曲に込めたものはあるはずで、それをイメージさせるぐらいは経費を掛けなくても可能なはずである。

話は個人撮影に飛ぶが、今日はノスタルジックな感じで行こうとか、一緒にハイキングに来た雰囲気を出してみようなど、ある程度のテーマが自然と浮かぶはずで、モデルのカタログ写真になってはつまらない。
しかし、撮影会ではどうしてもその傾向になりがちなので、そこを写真だからできる静止画の切り取り方を工夫したいものである。どうしても一人のカメラマンだけに意識を集中してもらうことは難しい環境の中であるが、10秒あれば銀塩なら36枚撮りきることはできるし、その流れの中で二人だけの空間を作ることは可能である。
流れを一気に作ってしまえば、他のカメラマンが立ち入れない状態は作れる。しかし、最長10秒で、何度も出来ないことは肝に銘じておく必要がある。迷惑なやつだと思われてしまって最悪である。

撮影会で、こちらのペースに相手を引き込むことは初心者では難しい。ベテランでもダラダラと参加し続けているだけでは大勢のカメラマン中の一人のままでに過ぎない。参加者の多い撮影会のモデルは一流どころではないにしても、レッスンを受けたプロが多い。当然、ルックスもよければ笑顔もポージングも訓練されているわけだ。そんなプロに見下ろされて撮っている以上、なかなか自分の作品だと思える写真は残せていないはずである。バックの処理や表情などがタイミングよく揃っていい作品であると雑誌などで入選したとしても、決して満足できていないと思うのである。「イヤ大満足だ!」と言う人には、私は「あっ、そう」でおしまいなので好きにしてもらっていい。
たまたま撮れただけで、正直自分の作品であると胸を張れない後ろめたさが残って当然で、その気持ちがなければ個人撮影をする段階にはまだ来ていないということである。
って感じだが、私はまなちゃんとの久々の撮影を目前にワクワクしている。


<−戻る