デジタル時代のポートレート
デジタル一眼がかなり普及したんだなーって、ネットをブラブラしていると思うわけだ。私が『Joe's Gallery』を開設した頃はブログなんてものがこの世に存在しなかったこともあるが、何よりも作品レベルのデジタル画像を作成する道具が普及していなかったということが大きい。
私もフィルムスキャナーを3台買っているが、D3が買えてしまうぐらいの金額だったと記憶している。
2003年ぐらいになると、デジタル一眼も徐々に一般ユーザーに広まりだして、そのタイミングで驚くほどシャープな写真を公開しているサイトが急増した。
ほとんどが、ダカフェ風を模倣したスナップや、風景写真を公開しているサイトやブログであるが、母数が増えただけポートレートも爆発的にサイト上に増えてきた。
ただ、ブログで写真を公開していることが多いが、過去に遡るのが邪魔臭いので、私はほとんど見ないが。
雑誌でも、ポートレートを撮りたいアマチュア向けの記事も増えている。まなちゃんとの島根での撮影後に交流のあった河野英喜氏は特集記事やフォトコンのコンテストで大忙しのようだ。
最近の写真雑誌で、河野氏が別冊でポートレートのポーズ集的な特集をやっていたが、これから個人撮影を行おうと思っているアマチュア向けとして出版社から依頼を受けて、かなり苦心しているのが伝わって同情すら感じてしまった。
セクシーなショットを撮る時などは、さらに気遣いを感じたし、この冊子では「頼むからモデル対して土足でずかすか踏み込むんじゃないよ」ってメッセージが随所に表現されていたように思うのである。
しかし、それが一番大事であることは、私もいろんなカメラマンを見てきたからよくわかる。こんなことは常識だろ?ってことが通用しないヤツが多いのだ。あえてヤツと書かせてもらったが、迷惑なのである。
実際にモデルと話していても、嫌な思いをしていることは多い。しかし、撮影会などのモデルはプロだから、無礼なアマチュアもお客様として、大人の接し方をしているだけ。
結局、モデルが信頼して身をまかせてくれれば、いい表情もポーズも自然と生まれてくるものなのである。
モデルに対してこと細かく指示を出せるのは確かに優れたポートレートカメラマンであろう。しかし、最終的に作品になる写真のポーズなり表情に導くプロセスによっては、写真を見た人に違和感を感じさせることも多いのである。
その違和感バリバリの写真を撮って、ポートレート名人を気取ったカメラマンが多いのが最近の傾向であると私は思っている。昔から私が常々言っている「現実と非現実」の理論にも通じることであるが、410話の「経験からのリアリティ」でも読み返してもらえれば嬉しい。
最近のカメラは優秀で、入射光式露出計やマルチ・スポット測光での微妙露出コントロールをせずとも、カメラ任せのマルチパターン測光と露出補正でほぼ思い通りに撮れるようになった。その背景にはカメラメーカーが仕込んだデジタル画像処理が有効に働いていたりする。アクティブD-ライティングなどはその代表である。
それでピントさえ来ていれば、作品ベースのRAWデータは出来上がる。
それは、銀塩時代のポジと同じようでまったく違うものである。RAWデータさえそこそこのものがあれば、RAW現像でどうにでも出来る時代である。
それを自家プリントできてしまうのだから、すごい進歩であり、デジタルの知識が豊富であればプロ並みの写真が出来上がるわけである。
プロ以上にデジタルに詳しいアマチュアは星の数ほどいる。だが、完成度の高いデジタル画像が作れるだけのことであって、いいポートレートが撮れているわけではない。
そう考えると、プロと同じ条件で被写体に向き合える風景写真の世界では、プロをも凌ぐアマチュアの作品がどんどん出てきそうだ。だから、このジャンルで飯を食っている写真家は大変だろうって思うのである。
経験が浅い分、若い世代には体力という最強の武器がある。それをフルに発揮させたときの行動力は脅威ではないだろうか。
しかし、ポートレートの場合は、私の目が肥えているからかもしれないが、まだまだ差があるように思える。
上手いと思い込んでいるアマチュアのポートレートは、分かりやすく言えば「作りすぎ」なんじゃないかと思っている。素人なら素人らしく、もっと素直に撮った写真のほうがいい。技巧を凝らせば上手いと思われると勘違いしているケースが多すぎる。
いい写真とは、ずっとみてて見飽きない写真だと言われたことがあるが、それは、作り込んでできるものじゃないから、私も挑み続ける意義を感じている。
写真をそこそこやっている人に対しては、すごい手の込んだことしてるなーって思ってもらえても、単なる作例になってしまってはどうしようもない。その技術力をベースに感じる写真を撮れればベストで、いつかその技術を発揮できる時にめぐり合ったタイミングで対応すればいいこと。技術ありきで後からモデルをあてはめたような写真からは訴えるものを感じない。さらに、不自然なポージングであったりすればもってのほかだ。
しかし、あくまでそれは私の作風と逆のベクトルを目指していることは明らかで、私は真似したいという気もしないが、おそらく大多数のポートレートカメラマンは凄い写真だと感じるだろう。
方向性が違うので、解り合えることはいつになってもないことになる。
さらにブレない私は、私の撮り方のポートレートをこれからも撮っていくつもりである。デジタル時代だからこそ、息遣いを感じる写真を撮らねば。