写真は感性なり


写真をはじめる年配の方が最近多いように思うが、ボケ防止には最高であるらしい。電車やバスに
乗った時は車窓から外の景色を見るのもすごく効果があると聞いた。目から入力された情報を頭で
処理するという作業が良いらしい。
写真というのは、その作業がメインであり、それが出来ないといい写真は撮れないのである。
人それぞれ、見た物に対する考え方は違うのだから、同じ場所から同じ被写体を撮っても出来上が
りの写真のイメージは違うはずで、それがその人の感性であるといえる。
しかし、そのイメージに近づけるためには、多少なりともカメラの操作やレンズワークが必要にな
ってくる。だから説明書を必死で理解して操作を覚えるのではなく、自分が撮りたい写真はどう操
作し、どう設定すればいいのか、またどんなレンズが必要なのかを研究して行く方が絶対に慣れる
近道である。一生使うかどうかもわからん機能を覚えても無駄ってもんだ。

また、個人の感性は他人が賛同してもしなくてもいいのであるが、万人の心を動かすような感性を
持ち合わせているかいないかで、写真の評価が決まってしまうこともあるのが現実である。
風景写真の写真集などは、例外なく美しい。自分が持ち得ない感性を発見することが多いが、その
写真が強く印象に残れば、今後の撮影で自分の感性のひとつとして発揮されるのである。
それは盗作でもなんでもないのだ。まったく違う風景を見た時に、以前見て感動した写真のイメー
ジがオーバーラップして、自分でカメラを操作しレンズを選ぶそして構図を決定するのであるから
完全に自分のオリジナル作品であり、自分の感性となっているのである。

最初から素晴らしい写真を撮る人もいれば、徐々に良い写真を撮れるようになる人。いつまでたっ
ても、つまらない写真しか撮れない人。いろいろであるが感性というものは生まれ持った天性のも
のかもしれないが、自己開発していけるものであると思っている。そうでなければ、やってらんな
いじゃないか。そのために他人の撮った写真を見、影響を受けて、研究し練習するのである。
だから、カメラの操作が上手くレンズをたくさん持っていても、良い写真は撮れない。じゃないと
カメラ屋さんはみんなプロ級の腕ということになる。

ただ、感性というものは個性であって、共感できるものと、どう考えても生理的に理解できないも
のがある。だから模倣する対象は人それぞれ違って当たり前だ。私はどう天地がひっくり返っても
アラーキーの写真は理解できない、どこがどう良いのか、素晴らしいのか分からないのである。
それは持って生まれたものであり、無理して真似ても絶対に失敗するだけがおちであろう。
だから、他人の作品を見て、真似る行為そのものが感性であるといえるのである。

ポートレートの場合、自分の感性とモデルの感性がピッタリ一致することなど、めったにないのだ
が、そうなった時は実に気持ちが良いいし、撮影にも熱が入る。
ニコニコ笑っている顔が好きなカメラマンもいれば、私のように、内面の何かを模索するのを楽し
むカメラマンもいるだろう。私はいつもニコニコ、ぱちくりモデルは苦手だ。顔が明るくて魅力的
に見えるので、ついシャッターを切ってしまうが、よーく見てみると「こいつ結局同じ顔しかして
へんやんけ!」ってことに気がつく。上手く表現できないが・・・・
外見は違った雰囲気に見せかけているが、中身が無いんだ。そんなモデルってかなりいるぞ。

以前、ある17歳のおんなの子がデジカメでセルフ・ポートレートを撮って送ってくれたのだが、
その写真の中の一枚が私の感性のセンサーを刺激したのだ。最短撮影距離を越えるほどのアップだ
ったのか、すこしボケてはいるのだが、フレームの右下部分にはピントが来ていて、そこには彼女
の髪の毛が写っており、毛先が濡れているのだ。風呂上がりかシャワーの後だと思うが、それが妙
に艶めかしく思えたことが、印象に残っている。それは私のフレーミングの勉強となり、大きな発
見であった。
ちょくちょく、こうやってセルフ・ポートレートを送ってくれるのだが、昨夜届いた写真は一人暮
らしをはじめた彼女の成長を感じるもので、少女から大人になりつつあるのを感じさせてくれた。
そしてその子は今写真をマジでやりだしたようだ。末恐ろしい存在である。


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