『素顔のままで』須磨編で想う事
まなちゃんを撮り出して、4ヶ月が過ぎようとしているが、今回の須磨での撮影で初めて体験した
ことがある。それは今まで私は撮影してた時の状況はほとんど覚えており、今でも数年前のことを
思い出す事が出来るのだが、今回須磨で撮った砂浜でのショットは昼間と夕方があったのだが、ど
んなふうに撮ったのかがよく思い出せないのだ。もちろん使ったレンズや露出などは分かるが、あ
の時の状況が鮮明に思い出せない。まだ10日しか経っていないのであるが、夢の中での出来事の
ように感じるのである。
同じ須磨でも、波打ち際で撮った時の状況ははっきりと覚えているのに、何故か砂浜で撮った時の
記憶がイマイチ曖昧なのである。
だからと言って何も考えないで、ただ闇雲に撮っていたのではない。
この撮影については、事前にプランが出来上がっており、それをまなちゃんにも伝えてある。
さらに私はその須磨海岸を事前にロケハンし、クルマの乗り入れ許可をもらい実際に広い海岸の何
処でどのような撮影をするか決めており、頭の中でそのイメージも出来上がっていたのである。
当然、まなちゃんもその辺は考えていた事だと思う。
実際の撮影であるが、レフを使うべきところでは確実にレフを当てているし、レンズの選択や微妙
な露出補正もほぼ完璧に出来ている。
だから技術的な部分はしっかりと確実にやっているのだが、すべてが自然に身体が動いていたよう
に思うのだ。それは事前に行っていたイメージトレーニングに近いものに乗っとって行われていた
のである。
それに、生身のまなちゃんが加わるのであるが、私のイメージしていた通りの身のこなし、表情が
そこにあった。しかし、まなちゃんのアドリブ的ポーズで私のイメージから外れるケースもあるの
だが、それについては鮮明に覚えているのだ。もちろん、まなオリジナルは素晴らしかった。
だから、私のイメージしていた通りに進んだ撮影ではその時の記憶と事前に持っていたイメージが
重なって現実との区別がつきにくくなっているのではなかろうか。
また、今回の砂浜撮影にはミスショットがほとんど無かったと言える。シャッターを切るべきとこ
ろで確実に切れ、完成度も高い。それはかなり集中して撮影できていたからであろう。
撮影後、まなちゃんも「いいのが撮れてるかなぁ?」って言っていたが、私も手応えを感じていた。
今回は砂浜に座ったり寝転んだりのポーズが多かったが、まなちゃんは細かいところまで神経を行
き届かせてくれるが、基本的には身体の力が抜ける楽な体勢であるので表情に深みが出ている。
まなちゃんは自分のイメージの中に入り込み、そこから表情やポーズが表面に出てくるのだが、そ
れが上手くいったと、言っている。
まなちゃんが砂浜に寝転んだ時は、徐々に私もカメラを砂に埋めるほど低く構えた。そして目線の
位置をまなちゃんに合わせるようにしている。選んだレンズも85mmと50mmである。
広角レンズになると距離感はいいのだが、顔が大きく写る危険性が高いし、見る側も85、50の
方が自然に近いのではないだろうか。
特に夕方の撮影でのまなちゃんは、今までにない色っぽい表情を見せてくれた。さらに、この表情
は私が描いていたイメージ通りであったのだ。
私のポートレートの撮影スタイルは、今回のような表情重視であることは皆さんお分かりであると
思うが、実際よく目にするポートレートに、造形の美しさや背景の溶け込ますような、モデルをオ
ブジェのように扱ったものがある。しかし、私には余りそれが魅力ある被写体とは思えないし、シ
ャッターを切りたいという衝動に駆られる事も少ない。極端に言えばマネキンでも銅像でもいいん
じゃないかと思ってしまう。ポーズに表情があれば話しは別だが。
私はモデルになってくれる女の子の人間の部分を感じていたいのである。見る側に何か語りかけて
くるような、または視線に引き込まれそうになったり、思わず微笑んでしまうような。