これがオレ流


今日は、ちょこっと風景写真について触れてみよう。
基本的に私の風景写真と、ポートレートは似ているどころか同じであると言える。
画面全体を平等に美しく主張させようとして撮った記憶はない。
絶対に主役が1番でそれ以外は2番よりずーっと後ろってな位置付けになる。
主役級が二つあっても、平等に扱うようなことはしない。どんなに似ていても50:50で全く同
じであるはずもなく、51:49であれば51の方を100にしてやりたくなるのだ。
といっても、それだけをアップで撮るわけにはいかないので、70:30とかにしてしまうのであ
る。写真を見た人が50:50に見えたとしても、撮っている私の意識の中では絶対にどちらかが
主役であるのだ。

だから、私のポートレートはモデルが主役であるのは当たり前だが、その意識がかなり強い。
いくら広角レンズを使っても、出来るだけバックは整理したいので絞りも開放域を使いたい。
基本的にほとんど開放でバックをぼかす手法なので、後ろに名所旧跡があろうと関係ない場合が多
い。
今まで、絞り込んでバックの建造物などをはっきり写すような撮影をしたこともほとんどない。

しかし、実際の撮影では、目を85mm開放の画角に切り替えて、モデル、前景、背景のバランス
を細かくチェックする。私がそのような行動をしているのをまなちゃんは良く知っているはずであ
る。しかし出来上がった写真はまなちゃん以外は大きくぼかされた脇役になっているのだ。
私は、バックがモデルと同じ解像度で写ることが許されないのである、それがたとえ奇麗な花であ
っても。
大口径の単レンズを多用することで、シャッターが高速で切れる必要があり、しょぼいボディーで
は役に立たない場合もある。

ということで、私は何か被写体をひとつ見つけたら、それ以外は引き立て役に回ってもらう考えで
ある。いくら立派な主役でも一人ぼっちでは晴れないので、脇役を連れてくるわけだ。
しかし、決して脇役は主役を食ってはいけないのである。
それは、ボカしてしまう場合もあれば、白く飛ばし気味にしたり、暗く落としてしまう。
そこで勘のいい人は、私の風景写真は一般的に言われている風景写真の撮り方と違うことに気付く
であろう。
そう、私は風景写真であっても、絞り込んだ撮り方をあまりしないのだ。パンフォーカスが常識で
あるような構図でも、見せたい部分以外をボカしてしまいたいと思うのだ。

それどころか、ボケが奇麗だからと、そのボケを主役にしてしまうってこともある。今日のオマケ
画像として付けた、ルミナリエの写真などはその典型である。
普通写真に解説を付けるのはあまり好きくない。だから題名を付けるのも嫌いなわけ。
題名を付けることによって、イメージを誘導してしまうような気がしてならない。見た人が感じた
ままでいいじゃないか。
そんなこと言っててもここでは仕方がないので、はじめるとするか。
とにかく私は他人と同じことをするのが大嫌いときている。みんなルミナリエに行けば、宣伝用の
ポスターと同じように撮ろうとしているが、そんなモノ撮って何が楽しい?って聞きたい。そんな
んは観光客のオバサンに任せておけばいいのだ。しかし、私としてはその方が都合がいいんだけど
ね。絶好の穴場スポットがガラ空きなんだから。
おっと、話がそれた。これはルミナリエの電飾は完全に主役の座を譲っていて、ルミナリエでの写
真であることを、控えめに伝えているだけに過ぎない。主役はその脇にひっそりと立てられていた
クリスマス・ツリーで、しかもその電飾を大きくボカしてしまった。
この年は『誰も撮らなかったルミナリエ』シリーズを数多く撮ったものだ。

次の、水中の泡のように見える写真は、どこにでもある山の中の小道である。ただ、そこに茂って
いた木の葉のボケを主役にしただけなのだ。題名を付けたり説明はしたくない派だが、これは説明
するまで、まなちゃんも水中写真だと思っていたのだから。
ただし!こんなボケは肉眼では確認できないということ。素晴らしく精巧に出来た人間の目では分
からないレンズを通してはじめて見える世界である。しかし、これにピンとくる目は養うことが出
来るのである。

これで、少しは分かって頂けたかと思うが、私の風景写真はイメージが先行する撮り方であり、そ
れはポートレートも同じなのだ。

<−戻る